古代史です。
先日、神奈川県小田原で3世紀後半の前方後円墳(谷津金ノ台遺跡)が見つかったので少し再考。
小田原で前方後円墳が見つかること自体、不思議ではないが、年代が古い。
関東地方で匹敵するのは
神奈川県海老名 秋葉山古墳群、
千葉県市原 神門古墳群。
前者はのちに相模国分寺・国分尼寺、
後者はのちに上総国分寺・国分尼寺
が建てられたところ。
小田原も国府の津(港)という名の国府津がある。
この国府は相模国府(余綾国府)(大磯)か
相模国以前の師長国(磯長国)の国府(二宮)と関係するとみられている。
古代神奈川でよく目にする名はオトタチバナヒメ(弟橘媛)とヤマトタケル(日本武尊)。
伝説地は、
足柄峠
大山 蓑毛
二宮 吾妻山(国府津に橘)
横須賀 走水(はしりみず)
川崎 橘樹[神社]
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走水はもっと広く浦賀水道と読み取ることができて、
千葉 富津、君津、木更津、袖ヶ浦、姉ヶ崎なども伝説地。
なお、オトタチバナヒメは穂積氏の一族。
前方後円墳と前方後方墳
注意すべきは、
前方後円墳は“統合国家” 「ヤマト(大和)の国」(いわゆるヤマト王権)の影響だが、
前方後方墳は統合前に反目していた側、銅鐸の祭祀を行っていた側の可能性が考えられる点。
便宜上都道府県レベルで大まかに分けると
奈良、三重は“統合国家”[大]ヤマト国(大和国、大倭国)の中枢だが、
大阪、和歌山は反目していた側。兵庫、京都、滋賀、愛知も反目していた側。静岡、神奈川も反目していた側、……。
この対立は西日本 vs 東日本ではなく
おそらく土、木、水、火など土着の神々の祭祀に
日(天)の神の祭祀が入り込んで、“出すぎた”か何かで混乱が生じたと考えられる。
単純に日(天)の神が勝ったというわけではなく
どちらも
つまり天神地祇、八百万(やおよろず)の神々の祭祀に収まった。
日本的というかヤマト(大和)的---しかし、この成り行きは全然普通ではない。
前方後円墳も前方後方墳も円墳や方墳と違ってあちこちで普通(自然)に発祥する形状ではない。
また、このことから反目し合っていながら既に共通のベース(基盤)が存在していたことも示唆される。
海老名も市原も小田原も最古級の前方後円墳と同じ頃もしくは先んじて前方後方墳が造られている。
静岡県沼津の前方後方墳(高尾山古墳)は東日本最古・国内最古級(3世紀前半)。
大胆に推測するならば、伊勢(三重)を追われて東方・常世へ向かったというイセツヒコ(伊勢津彦)つながりの人が関係ありそう。
※ 『風土記』逸文伊勢国、『先代旧事本紀』国造本紀
ともかくヤマトタケルは「ヤマトの国」の要人だが、駿河~相模では歓迎されなかった(もしくは手荒い歓迎)。
※ 野焼(火攻め)・草薙の伝説地である焼津は静岡。ただし、「古事記」・「日本書紀」の文脈上は、相模近くの沼津~小田原が焼津に当てはまりそう
再考 -東海の道-
「ヤマトの国」の影響が関東、特に神奈川に及ぶルートについて少し再考。
単純に畿内・東海からの影響であれば、古墳時代以前から駿河 - 伊豆 - 相模の海路があったハズ。
しかし、ヤマトタケルは陸路で足柄峠を越えて来たようだし、海老名あたりは位置的に北の武蔵方面からの影響が大かなと思っていた。
東京や埼玉で海老名以前の前方後円墳は見つかっていないが、「ヤマトの国」の要人が
諏訪盆地(長野) … 甲府盆地(山梨) … 武蔵
の交易ルートに入り込んで、座間 - 海老名といった具合に影響が及んだのかなと……。
東海道というと江戸時代の53次のルート、現在の国道1号を思い浮かべるが、古代武蔵の東海道は品川~藤沢ではなく、もっと西を通っていた。
▼ 古代の東海道(古東海道)の図
3つの時代のルートが描かれている。
青線の川崎方面~海老名は10世紀頃(平安時代)以降の東海道。箕輪駅が平塚で海老名~平塚~大磯のルートになっているが、今日大山山麓の伊勢原に箕輪駅跡の碑があり、こちらの場合、もう少し北側のルート、すなわち海老名から大山道(矢倉沢往還)、現在の国道246号を通って南足柄に至る。
※ 上図の国分寺、浜田駅が海老名
大住国府が平塚、余綾国府が大磯
小総(こぶさ)駅が小田原の国府津
坂本駅が南足柄の関本(現在の大雄山駅)、その先は足柄峠。足上郡が石上郡になっているのは誤字なのか意味があるのか不詳
北の多摩川・府中方面から海老名~平塚のルートが771年(奈良時代)以降10世紀頃までの東海道。
※ 9世紀、富士山噴火で足柄峠通行止、箱根峠へ迂回
(律令国家成立以降)771年以前の武蔵は東海道武蔵国ではなく東山道武蔵国。
(道・路の)東海道は、
浦賀水道 走水 … 葉山 … 鎌倉 … 藤沢 … 平塚。
古墳時代以前はよく分からないが、
途中の葉山に4世紀代の大きな前方後円墳がある。長柄桜山古墳群。
千葉は古墳の数が非常に多い。
相模 - 上総・下総 - 常陸が長らく大動脈だったように見える。
私的な年代推定だが、
ヤマトタケルの時代(景行天皇の時代)は4世紀代。
その前にも畿内からオオビコ(オオヒコ)とタケヌナカワワケが東へ向かっていて、こちらは崇神天皇の時代。3世紀代に該当しうる。
※ オオビコ=オオビコノミコト(大毘古命、大彦命)
オオビコの子がタケヌナカワワケ[ノミコト](建沼河別命、武渟川別)
『日本書紀』では四道将軍
依然として小田原よりも海老名の前方後円墳のほうが神奈川最古だが、
3世紀代は畿内・東海から一気に海路で「ヤマトの国」の影響が及んだように思えてきた。
3世紀中頃~後半、“統合国家” 「ヤマトの国」が成立して、間もなく東へ拡大していくという流れ。
3世紀より前にも“国家”は存在していたが、分立状態で、日本列島広範を統合していた“国家”はなかった。
※ 国家の首長は王と呼ぶこともできるが、国家誕生以前(クニと呼ばれたりする)の首長は王ではなく主(ヌシ)であることに要注意
オオビコが北陸、タケヌナカワワケが東海を進み、両者は相津(=会津)で合流した。会津(福島)には諏訪湖より大きい猪苗代湖がある。
ちなみに埼玉県行田 稲荷山古墳(埼玉古墳群)出土の鉄剣に刻まれている「意冨比垝」の名は、このオオビコではないかと言われている。
3世紀代に小田原、海老名、市原を駆け抜けた「ヤマトの国」の要人はタケヌナカワワケになる。
ヤマトタケル同様陸路の移動をイメージしていたが、海路の移動かもしれない。
「ヤマトの国」成立以前、つまり弥生時代も西から東へ(おそらくその逆も)物・人の流れがあった。
神奈川の数ある弥生遺跡のうち
約1800年前(2世紀頃) 綾瀬 神崎遺跡
の人々は三河(愛知)・遠江(静岡)から
約2100年前 小田原 中里遺跡
※ 参考ページ『関東で初めて水田を作った村 中里遺跡』
の人々は瀬戸内海あたりから
一気に海路で移って来た可能性がある。
やっぱりホ(穂)が気になる。