前回まで3回連続でまとめた北海道道北エリアは古代オホーツク文化発祥の地でもあるので、この機会にオホーツク文化について整理しておいた。
北海道の歴史は大まかにみると
旧石器 - 縄文 - 続縄文 - 擦文(さつもん) - アイヌ文化期
で、このへんは以前簡潔にまとめた。
道南から拡がった擦文文化に並行して
道北ではオホーツク文化が拡がり、
前者は本州以南(東北・北陸など)、
後者は樺太(サハリン)の人々との接触・交流によって生まれたと考えられている。
前回(アイヌ考その1)述べたことでもあるが、アイヌ人が縄文人に近いとされる一方、本州以南・沖縄の人々も祖先は縄文人であり、両者の隔たりが単に地理的隔たりだけでは説明つかない点がある。
(便宜上)「アイヌらしさ」と呼んだ固有の要素は、旧石器時代よりも浅い時代、異彩漂うオホーツク文化期に生まれたのではないか、と考えたほうが辻褄合うように思える。
そう思うと俄然関心が向くが、
昨年(2021年)末、横浜ユーラシア文化館(神奈川県)で
「オホーツク文化 あなたの知らない古代」
という企画展が行われていたので見に行った。
オホーツク文化 知らなかった古代
オホーツク文化は、北海道続縄文時代の後、5-9世紀頃の古代文化。
さらに前期・中期・後期に区分されている。
・ 前期 5-6世紀
日本海沿岸の奥尻島が最南端。
なお、この時代の十和田式土器の十和田は、十和田湖ではなく樺太南端近くの十和田。
・ 中期 7世紀頃
オホーツク文化圏は樺太全域、千島全域に拡大。
奥尻島は擦文文化圏になっている。
・ 後期 8-9世紀頃
同じオホーツク文化でも地域毎に特徴が出始めて、
パネルの地図では樺太(江の浦式土器)、道北(沈線文系土器)、道東・千島(貼付文系土器)の3地域に区分されていた。
時代が進むにつれて勢力が道北から道東へ移っていった……
10世紀は道南から拡がった擦文文化と同化していった。
ただし、道東は完全に同化したわけではなく、トビニタイ文化として13世紀まで続く。羅臼町トビニタイ(飛仁帯)が名の由来。
オホーツク文化の遺跡
オホーツク文化のオホーツク人は漁撈中心の「海の民」。
その一方、動物をかたどった牙製・骨製の像の多くはクマ。『陸獣がほぼ半分を占め、その9割以上はクマ』とのこと。
おとなしそうなクマさん……。
写真奥2つが礼文島出土という点が気になった。
オホーツク文化の代表的な遺跡は、
・ 網走市 モヨロ(最寄)貝塚/モヨロ貝塚館(www.moyoro.jp/)
オホーツク文化発見の地
網走には北海道立北方民族博物館(hoppohm.org/)もある
・ 北見市常呂 常呂遺跡群 トコロチャシ跡
常呂遺跡群はオホーツク文化期だけでなくほぼ全ての時代の遺跡が揃っている一大遺跡群
常呂には北東アジア考古学の研究拠点
東京大学 常呂実習施設・常呂資料陳列館(www.l.u-tokyo.ac.jp/tokoro/)
・ 枝幸 目梨泊遺跡
オホーツク文化最大級の遺跡
・ 礼文島
離島でありながら、縄文時代から交易拠点
明らかに「海の民」
牙製婦人像(礼文町浜中2遺跡)
浜中2遺跡は縄文時代からアイヌ文化期まで長きにわたって生活の痕跡がある遺跡
もう1つ別の牙製婦人像(礼文島内)
など。
樺太、千島
かつては樺太も千島もアイヌ人がいて、和人(日本人)がやって来て、ロシア人がやって来て、今はロシア人がいる。
古代はロシア無関係。
オホーツク文化の成立(始まり)が宗谷海峡一帯という点は揺るぎなさそうなので、樺太以北の人々が「アイヌらしさ」に関係ありそうだが……。
ミトコンドリアDNA分析などの結果、オホーツク人は、
樺太(サハリン) - アムール川下流
の人々に近かった。
遺伝的特徴から見たオホーツク人:大陸と北海道の間の交流 / 増田隆一 / 2013 / 北海道大学(hdl.handle.net/2115/52564)
を見ると
・ ネギダール Negidal、ウリチ Ulchi
・ ニブフ(ギリヤーク) Nivkhi
・ コリャク Koryak
といった少数民族が近縁。
各々主な居住域は
・ アムール川下流域
・ 樺太(北部)
・ カムチャッカ半島
で、前2グループは満州などの靺鞨(まっかつ)系集団に近いらしい。
一方、
アイヌ人とニブフなどは長らく別民族と認識されている点、
アムール川下流域の人々はツングース系民族で、縄文人と混血しても「弥生人…和人(日本人)」と大差生じ得ないのではないかという疑問
などから
千島~カムチャッカ半島方面も見逃せないように思う。
「アイヌらしさ」に関しては、流れ的にオホーツク文化中期~トビニタイ文化期の道東・千島も深く関係している可能性がある。
独自の国家が造られることはなかったが、アイヌ文化成立に至る過程は存外複雑だった。