前々回に引き続き鎌倉の話。大まかに歴史を辿ってみた。
鎌倉の歴史と言うと鎌倉時代の話に終始しがちだが、
鎌倉幕府終焉後もしばらくの間、鎌倉府として東国の中心であり続けた。
その後、中心が
・ 鎌倉から小田原へ代わっていく
・ 足利氏、上杉氏から[後]北条氏へ代わっていく
過程は内紛が絡むなどして分かりにくいが、分かってくるといろいろ繋がってくる。
江戸時代は、東海道が通って江の島道が分かれる藤沢のほうが、鎌倉よりも賑わった。
明治時代に鉄道(横須賀線)が開通して鎌倉は賑わいを取り戻した。
鎌倉時代
鎌倉時代の始まりは、かつては1192(いいくに)年。源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年。
昨今はもっと前から幕府の機能が備わっていた点に着目して、全国に守護・地頭が置かれ始めた1185年とすることが多い(らしい)。この年の壇ノ浦合戦で源平合戦も終結している。
なお、源頼朝が鎌倉入りして大蔵(大倉)に「幕府」が置かれたのは1180年。この頃はまだ「屋敷」。平清盛も存命中。
今年(2022年)は「鎌倉殿の13人」を目にすることが多い。
「鎌倉殿」は源頼朝、頼家、実朝の3代の将軍。
「13人」は源頼家を支える重臣。
顔ぶれは、
北条時政を中心に子・北条義時、
三浦義澄、安達盛長、梶原景時、比企能員(よしかず)、和田義盛、
大江広元、三善康信、
足立遠元、中原親能(ちかよし)、二階堂行政、八田知家。
鎌倉観光公式ガイド 鎌倉殿×13人の重臣たち~鎌倉時代をめぐる旅~(www.trip-kamakura.com/site/2022kamakuradono/)
主人公は北条義時だが、
姉の北条政子を鎌倉時代初期(源頼朝~北条義時の時代)の最高実力者とみなしても違和感ない。
政子さまのご機嫌を損ねると討たれてしまう。
政子さま、源実朝の墓は源氏山の寿福寺にあるが、
源頼朝、北条義時の墓・法華堂跡は、鶴岡八幡宮の東、大蔵(大倉)幕府跡傍にある。
執権・北条氏に次ぐナンバー2は三浦氏、
三浦氏が滅んだ後、安達氏、
最後は長崎氏。
北条高時、政治いや、いいや、めんどう---
1333年、鎌倉幕府終焉。
奈良・平安時代
昨秋(2021年秋)、鎌倉歴史文化交流館で催されていた「頼朝以前」の副題は、~源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか~。
既に父・義朝(よしとも)の居館が鎌倉にあって、
さらに遡れば奥州(前九年の役・後三年の役)へ出陣した源頼義と子・八幡太郎義家が鎌倉を東国の拠点としていたので、代々源氏ゆかりの地だった。
前九年の役の後、源頼義が八幡神を浜辺に祀った。元八幡(由比若宮)。
源頼義の前、鎌倉を拠点としていたのは源氏ではなく平氏だった。
常総(今の茨城~千葉)などで、
11世紀に平忠常の乱
10世紀に平将門の乱
が起こり、後者を収めたのは同じ平氏(平貞盛)だったが、前者を収めたのは平氏(平直方)ではなく源氏(源頼信)だった。
源頼信の子・頼義が平直方の娘を妻とし、鎌倉を継いだ、という流れ。
清和源氏の系図
鎌倉幕府倒幕の中心的役割を果たした新田氏、足利氏も源義家からの流れ。
なお、鎌倉党という武士団は平氏で、梶原氏がその後裔。
奈良時代
律令国家「日本国」になって8世紀以降、
畿内・七道 - 国 - 郡
に区分され、国、郡を司っていたのは国司、郡司。
相模国の場合、国府は平塚~大磯で、
鎌倉郡衙は現在の市役所がある御成。
鎌倉の長谷(はせ)に大仏が建てられたのは鎌倉時代だが、長谷寺は奈良時代創建。長谷には鎌倉最古とされる神社・甘縄神明宮もある。
古くから特別な所だったように思えるので、「頼朝以前」に惹かれた。ただし、この探究はお預け。
ヤマトの国の時代
7世紀以前、「ヤマト(大和)の国」の時代(古墳時代~飛鳥・白鳳時代)も日本列島いくつもの国に分かれていて、司っていたのは主に国造。
相模は、師長国(磯長国)と相武国に分かれていて、
※ 『先代旧事本紀』国造本紀
さらに東の鎌倉郡・三浦郡一帯は鎌倉別(カマクラノワケ)に分かれていた(と推測されている)。
※ 『古事記』景行天皇によると鎌倉別の祖は足鏡別王(アシカガミワケノミコ)。ヤマトタケルと山代のヒメの子
以上、鎌倉の歴史ついでに古代相模の紹介でした。