鉄の利用の歴史について。
いろいろ込み入った世界だが、日本において鉄は国家の始まり(文明の始まり)、近代国家の始まり(近代文明の始まり)という大きな節目に結びついているので避けて通れない。
※ 当ブログは一応地理・歴史系。
前者は勢力交代すなわち国譲りの時代。
後者は江戸幕末~明治の動乱期で、日本における産業革命の時代。佐幕派も倒幕派も国防(海防)のため大砲および大船(蒸気船)の建造に躍起になっていた。
また、中世には異国人が鉄砲持って種子島に現れ、国中戦法を一変させている。
農具、工具、金具から始まって、
鉄剣、日本刀、鉄砲、大砲、機械、船舶、鉄道、鉄橋、車、高層ビル(鉄筋・鉄骨)……。
目に見えて世の中が変わっていくその中心に鉄がある。
鉄拳、鉄槌、鉄壁、鉄則、鉄人……。
鉄は力の象徴。
製鉄
鉄の大元は隕石由来の隕鉄と地球地表の岩鉄(鉄鉱石)・砂鉄に分けられる。
製鉄(鉄器生産)の開始は、知りうる限り4000年以上前のアナトリア(今日のTurkey)で、その後、この地のヒッタイト帝国が生産技術を独占し続け、紀元前12世紀の帝国滅亡後、周辺各地に伝わったとされる。
アナトリア考古学研究所 →
西アジアから南アジア
あるいは
中央アジアから蒙古、シベリアの騎馬民族など
に伝わり、
古代中国においては春秋時代(紀元前8-紀元前5世紀)に鉄器が現れる。紀元前6-紀元前3世紀だと呉や燕などでみられる。
日本最古の鉄器は、福岡県糸島市・曲り田遺跡や熊本県玉名市・斎藤山遺跡の鉄斧で、弥生時代早期。おそらく紀元前6-紀元前3世紀に収まるが、大陸から日本に至るルートは不詳。
伝播ルートは1つでなかった可能性もあるが、
朝鮮半島南部 弁辰(のち伽倻) - 倭 北部九州
は確実。
※ 弁辰人 ≠ 朝鮮人
いきなり大きな国家が現れるわけではなく都市もしくは都市圏レベルの小国家から始まるが、日本における国家誕生は紀元前後の北部九州で、国譲りを実現させたのは鉄器勢力とみられる。
最初期の国家で力を持っていたのは武神・タケミカヅチノ神(建御雷神、武甕槌神)など春日(カスガ)の神々を祀る集団であろう。
鉄の製法
歴史から離れて鉄の製法を整理しておく必要がある。
まず、原料となる砂鉄や鉄鉱石は、鉄酸化物(酸化鉄) Fe・O + 不純物。
※ 磁鉄鉱 Fe3O4、赤鉄鉱 Fe2O3、……
これを高温で溶(熔)かして酸素 O、炭素 C、その他の不純物(珪素 Si、リン P、硫黄 Sなど)を取り除く ・・・ 精錬。
原料、燃料とともに入れる石灰は不純物と反応してスラグ(滓)となり、取り除かれる。
・ 燃料 Cは始め薪木、木炭
・ 自然送風もしくは人力で空気(酸素)を送り込んで
燃焼、高温を実現。
C + O2 → CO2
C + CO2 → 2CO
燃料は還元剤の役割も果たす。つまり、燃料 Cおよびその燃焼で生じた一酸化炭素 COが鉄酸化物から酸素を除去する(還元)。
Fe・O + C → Fe + CO
Fe・O + CO → Fe + CO2
[人工]鉄(銑鉄)出来上がり。
炉内の温度が高くなるほど炭素分の多い鉄になる。
一方、鉄は炭素分が多くなるほど融点が低くなる(低温でドロドロになる)。[純]鉄 > 錬鉄 > 鋼鉄 > 鋳鉄。
[純]鉄の融点が約1500℃。
鋳鉄の融点が約1200℃。
1000℃未満でも加工できる。
- 半溶融状態の銑鉄を鎚(ハンマー)で打ち叩いたり(鍛えたり)、
- 溶融状態の銑鉄を鋳型に流し込んで
様々な鉄製品が作られる。
大陸は後者の鋳造が主で、日本は前者の鍛造が主だったようだ。
日本伝統のタタラ製鉄では、選り分けられた砂鉄に
・ 燃料の木炭を加えて
・ 足踏みなどでフイゴ(鞴、吹子)を駆動させて送風
足踏みフイゴ付きの炉がタタラ炉。
タタラと聞くと山陰・出雲が思い浮かんでくるが、タタラ製鉄が盛んだったのは中世以降の奥出雲。古代においても行われていたようだが、出雲は国譲りを迫られた側。古代においては同じ中国山地でも伯耆~吉備で鉄器が数多く見つかっているので、国譲りを迫った人々は出雲の東の伯耆あたりにいた鉄器集団と考えられる。
よって出雲~伯耆も初期の国家。
ともかく砂鉄からタタラ炉で作られた銑鉄が和銑(タタラ銑)。
近代に入ってからタタラ製鉄は一時途絶えたが、日本刀作りに欠かせないということで、島根県奥出雲町に「日刀保(にっとうほ)たたら」がある。
日刀保たたら →
産業革命始まりの地・英国では鉄の大量生産に伴い燃料の木炭が枯渇し、価格が高騰したため石炭に変わっていった。
だが、石炭は木炭より燃えにくく、硫黄酸化物、窒素酸化物などの不純物が多く含まれ、燃やすと煤煙が出るので、いろいろ工夫する必要に迫られた。
その工夫が、石炭を蒸し焼き(乾留)して得られるコークスの利用であったり、反射炉の利用。
1709年 ダービー父 コークスによる製鉄 試用
1735年 ダービー子 コークスによる製鉄 実用化
1766年 クラネージ兄弟 反射炉発明
コークスは石炭より燃えにくいので強力な送風装置が必要とされたが、
送風装置もまた人力から水車の利用、蒸気機関の利用へと変わっていった。
反射炉
江戸幕末の1850年代、日本のサムライは大砲を鋳造すべく蘭書(オランダ書)を参考にしながら反射炉の建造に取り掛かった。
※ ユーリッヒ・ヒュゲニン 『ロイク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』 1826年
訳書は『鉄熕鋳鑑図』など
(当時の)反射炉は熔解室と燃焼室に分けられている炉。
ドーム状の天井や壁で熱(火炎)が反射され、その集められた高熱(反射熱)で原料を溶かす。
石炭の不純物が銑鉄に混じ入らないよう2つの室に分けられている。
- 1850 / 1852年 佐賀藩(鍋島藩) 佐賀県佐賀市 築地反射炉 ・・・ 国内初
- 1854年 佐賀市 多布施反射炉
- 1855年 島原藩の飛地 大分県宇佐市安心院 佐田反射炉
- 1855 / 1857年 水戸藩 茨城県ひたちなか市 那珂湊反射炉
- 1856年 長州藩 山口県萩市 萩反射[試作]炉 ・・・ 現存
- 1857年 薩摩藩 鹿児島県鹿児島市 集成館反射炉 ・・・ 跡が現存
- 1857年 天領 静岡県伊豆の国市 韮山反射炉 ・・・ 現存
- 1857年 鳥取藩 鳥取県北栄町 六尾反射炉
しかし……。
鍛造が主だった日本は細かな部品作りに長けているが、大砲の鋳造には相当苦戦を強いられたようだ。
形は大砲でも発射時に破裂する脆いものばかりで死者も出していたらしい。
やがて砂鉄由来の和銑は大砲鋳造には不向きとみなされ、鉄鉱石から鉄を製錬すべく新たに[洋式]高炉を建造することになった。
つづく。