【脊振・佐賀エリア】 吉野ヶ里遺跡 -謎解きの鍵-

JAPAN(日本)

 昨年(2022年)から佐賀県吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」の発掘調査が始まり(10年ぶり)、甕棺墓などが出土しているが、注目された石棺墓(4月に発見)からは人骨、副葬品ともに見つからなかった。
 この「謎エリア」は弥生時代の[北]墳丘墓の西の日吉ひよし神社に位置する未調査区域。
  ※ 2022年に神社移転 - 発掘開始なので、
 昔現地で入手した小本には『古墳が眠る謎の日吉神社』と書かれている。
 ・ 異常に低い神社入口の鳥居
 ・ 参道両側にある大きな平たい石
が不思議……

 吉野ヶ里におけるミステリーはなくなりつつあるが、
 依然解せない点がある。

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吉野ヶ里遺跡について

 吉野ヶ里遺跡は1986年から発掘が始まり、1988年-1989年に発見・公開・大々的報道があった。
 この発見がなかったら一帯は工業団地になっていた。

 私的にはちょうど学生の頃。社会の先生が古代史好きで、古代から先になかなか進まず……
 のちに列車で佐賀を通った時、ふと思い出して最寄の駅に降り立った。
 今は吉野ヶ里公園駅、当時は三田川駅。
 遺跡は長崎本線の北側にあり、のどか。
 駅の南側にR34(国道34号)が走っていて、お店も南側にあり、一周した記憶がある。
 フィーバーはひと段落して、歩いている人は疎らだった。

 昔の小本(ガイドブック)

 上の表紙の剣は[北]墳丘墓の甕棺墓から出土した有柄銅剣。

吉野ヶ里歴史公園(www.yoshinogari.jp/)
 最寄の駅 吉野ヶ里公園から公園東口まで徒歩約15分
      神埼から公園西口まで徒歩約15分

 ひとまず
 ・ 二重の環濠集落、その規模(最大級
 ・ (復元された)物見櫓(やぐら) ≒ 楼観(楼閣)
が大きな特徴で、
 倭国大乱期とも言われる2世紀頃、各地に点在していた国の1つと理解した。「吉野ヶ里王国」。

 その後、銅鐸も出土して(九州初出土)、
 歴史公園になり、
 西へ北へと園地が広くなった。

 下の空中写真は佐賀県HPから拝借。

佐賀県HPから

 栄枯あったようだが、紀元前から奈良時代に至るまで、吉野ヶ里は一大拠点だったよう。
 [北]墳丘墓および日吉神社跡の北側は、奈良時代の役所・神埼郡衙(ぐんが)跡。

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『魏志』倭人伝と吉野ヶ里

 吉野ヶ里遺跡発見でフィーバーになったのは、何と言っても『魏志』倭人伝に記されている邪馬台国(ヤマタイ国、ヤマト国)絡み。
 かつては近畿から離れた地域に(大国と思しき)邪馬台国のような国が実在するとは、ほとんど認められていなかった。自ずと邪馬台国は畿内説が優勢。
 しかし、1980年代、中国・出雲の青銅剣大量発見、九州・吉野ヶ里遺跡の発見によって、畿内説以外の可能性も現実味を帯びてきた。

 私も吉野ヶ里遺跡を訪れた後、『魏志』倭人伝を読んでみた。
 訳文は遅読の人でも1日あれば読める。
 結論から言うと吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国とみなすには距離が足りない(近すぎる)。
 一方、楼観や城柵があったり、朱や絹が見つかっていたり、邪馬台国を思わせるような遺跡であることも確か。
 読後の率直な感想としては、途中の伊都国が合いそうだと思った。

 ・ 末盧国(マツロ国、マツラ国)(佐賀県唐津付近)の東南
 ・ 南へ水行が可能
という伊都国の条件をよく満たしているところが佐賀平野(筑紫平野)。南は有明海。吉野ヶ里遺跡も昔は海まで近かった。

 にもかかわらず、
 ・ 伊都国は福岡の糸島半島とみなされ、
 ・ 佐賀平野を伊都国とみる向きが少ない。
 これが今日に至るまでズーッと解せない点

 伊都国には代々王がいたが、いつしか(邪馬台国などから成る)女王国の傘下となった。
 あたかも国譲りを迫られたかのよう。
 糸島半島はどちらかと言うと国譲りを迫った側のように見える。糸島半島の南は脊振山地。

 伊都国 = 佐賀平野とすると
 邪馬台国に合いそうなところは宮崎---
 このへんは追々。

 追)
 石棺墓の「×」などの線刻のある石蓋について続報
 ・ 石蓋4枚のうち3枚は元々1枚の石だった
 ・ 鑑定の結果、(佐賀・長崎県境の)多良岳周辺で採石された
とのこと。
 吉野ヶ里遺跡の北に脊振山地があるが、船で有明海を渡ってきたらしい。
 代々王がいて、南へ水行、
 伊都国 = 佐賀平野と矛盾しない。東に久留米や甘木、東南に八女や瀬高。

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ふシゼン
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